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「一度きりの大泉の話」(萩尾望都著、河出書房新社、2021年4月発売)を読んで [読書感想]

魂の言葉「私は誰からも漫画を奪いたくありませんでした。」

 どうやって、この本のことを知ったのか、今では思い出せません。
 この本を読むまでは、少女漫画は全くの門外漢で、この本を読んでから、主に萩尾望都氏の様々な作品を読み、とても驚いているところです。・・「半神」、「バルバラ異界」に、「なのはな」ときて、「プルート夫人」・・、全く最高ですね。
 この本では、主に3人の人物、竹宮惠子氏、増山法恵氏、萩尾望都氏(この本の著者)が登場します。竹宮氏の本によれば、当時、それぞれ、ケーコタン、ノンタン、モーサマと呼び合っていたそうです(この呼び方が、全てを暗示しているような気もするのですが、それさえ、萩尾氏にすれば、私のトロさの表れとなるのかもしれませんね)。このレビューでは、その世界に敬意を表して、ケーコタン、ノンタン、モーサマと表記させていただきたいと思います。
 なんとなく、時の経過に合わせて読んだほうがいいような気がして、「少年の名はジルベール」(竹宮恵子著、小学館、2016年2月発売)、「萩尾望都と竹宮恵子 大泉サロンの少女マンガ革命」(中川右介著、幻冬舎、2021年3月発行)、「一度きりの大泉の話」の順序で、読みました。できるだけ善悪や優劣から離れたところで、この本「一度きりの大泉の話」を紹介したいと思います。

 この本を読んだ感想はといえば、数多くの方々の非常に長いレビューが示している通り、衝撃というしかありません。文章の一つ一つに(繰り返される自己否定的な言葉にさえ)魂が込められているかのような非常にパワフルな本であり、読みながら、美しさとは何か?本を書くとはどういうことか?創造とは何か?天才とは何か?芸術とは何か?独創的な作品がどのようなプロセスで創り出されるのか?・・・について、深く考えさせられました。
 この本を一言で紹介するのは、とても難しい作業なのですが、無理を承知で紹介するとすると、「覚悟の本」といえるでしょうか(詳細は後述)。今からほぼ50年前(!)、「大泉」という土地に結集した若き少女漫画家達の奇跡の2年間とその解散の様子が生々しく書かれ、ケーコタンの本では書かれなかった別離の真相が書かれています。モーサマにとっては封印・凍結していた過去の思い出のようですが、マスコミ等の執拗で高圧的な追求に追われ、追い込まれて、かなり切迫した状態で書かざるをえなくなった本のようです。言い換えれば、50年に及ぶ過酷な創作の日々を乗り越えてきたレジェンドの最初で最後の「大泉」回想録といえるでしょう。

 天才を、「弧で、それまでの常識を根底から覆す革命的な仕事を成し遂げた人」とすれば、モーサマはまごうことなき天才の一人といえるかもしれません。ケーコタンの場合、ノンタンとの深く活発なディスカッション・相互作用の結果、数多くの名作が生み出されたようです。一方、モーサマの場合はどうでしょうか?自分に対するネガティブな表現ばかりの中、唯一、「解答の出ない疑問をしつこく考えるのは得意」(p236)と書かれています。また、ひらめきが生まれる瞬間が、以下のように表現されています(p211、リリース文)。
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 お話をずっと考えていると、深い海の底から、または宇宙の星々の向こうからこういうものが突然落ちてくることがある。落ちてこない時はただ苦しいだけだけど、でも、それがふっと目の前に現れる時、宝物を発見した、という気持ちになります。自分が見つけたというより、エーリクが見つけてくれた、そういう気分になります。
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 つまり、モーサマ内部でのひらめきと自問自答の強い相互作用・連鎖反応(連想に次ぐ連想)によって、名作の数々が生まれていったように思われます(これは、まさに歩く原子炉ですね。ん?鉄腕アトムか!さすが、手塚治虫氏の申し子)。また、上記の一連の本から推定すると、モーサマは、おそらく、瞬間的に、普通の人の何倍もの量の外部情報を、視覚や肌感覚を通して受け取ってしまい、上記の内部での相互作用と相まって、それを言語化するのに、いちいち時間がかかるタイプなのでしょう(Youtubeの動画で、インタビューの様子を見ても、眼が非常に活発に動かれていますね)。モーサマは、自分のことを、バカ、トロい、ノロマ、頭の回転が悪い、会話についていけない等と散々な表現をしていますが、その言葉に全く嘘は無いと思います。その強い劣等感は、おそらく子供の頃から続いてきたことと思います。

 この本の文章には、魂を絞り出しながら、こぼれてきた声について、一つ一つ、その真偽を確かめているような、魂の叫びと冷徹さといった、本来共存するはずの無い2つが共存しているような、不思議な怖ささえ感じられました。
 ひらめきと自問自答の強い相互作用に加えて、このようなプロセスで物語が創られ、しかもそれまでにない新しい技法をもって、その物語がまるで映画のように描かれていくとすれば(「少年の名はジルベール」より)、しかも、その才能が周囲を吸収し、みるみる育っていくとすれば、その巨大な才能と、同じ創作者として対峙しなければならなかった若きケーコタンの苦悩の深さが胸にしみるようです。同じ部屋で寝起きとか、見せ合うとか、手伝い合うとか、いやー、よく2年も持ったものです(部屋ぐらい分けとけよ)。
 別離の真相について、ケーコタンはケーコタンの信じる少女漫画の今と未来のために、あえて書かなかったのでしょう。一方、モーサマは、新しい物語に飢えた人々から、モーサマの信じる独創の世界を守るため、切迫した状態の中で書かざるをえなかったのでしょう。そこに、良い悪いもなく、優劣もないでしょう。

 そうして、モーサマは、少女漫画の今と未来を考えなかったのでしょうか? いいえ。
 この本の後書き(p293)の中で、こう書かれています。
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 私は漫画とその世界に、子供の頃から救われてきました。
 私は漫画が大好きです。(中略)
 私は誰からも漫画を奪いたくありませんでした。
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 この行の最後の文章は過去形になってしまっています。実にさりげなく書かれています。
 誰からも、の中に、一体どれだけの人々が含まれているのでしょうか?少女漫画に救われた幼いモーサマやケーコタン、ノンタン、夢見る多くの少女、少年が含まれていることでしょう。これが、ケーコタンが守り通したものとモーサマが犠牲にしたものの正体だと私は思います。モーサマは、この本を書くことで、モーサマにとって極めて大切なものを失ってしまったのかもしれません。そうして、そのことを覚悟の上でこの本を書いたに違いありません。
 私は企業研究者で、これまで様々なジャンルの本を読んできましたが、この最後の文章ほど、素のままで、魂の全てが乗り移ったかのような文章を読んだことがありません。なんという美しい文章でしょうか。

 この本は、「覚悟の本」です。今なお新しい創造へ挑まんと、一切の飾りを捨てた覚悟の本です。生ききる美しさを示す硬い意志の本です。冷徹さに裏打ちされた魂の叫びともいえる本です。美しさとは、芸術とは、独創とは、革新とは何かを問う本です。創造を妨げるあらゆるものに対する激しい怒りの本です。純粋で幼稚で不器用な天才の深い嘆きの本です。独創の秘密に溢れる極めて面白い本です。多くの人々のやたら長いレビューが示している通り、人々の心を揺さぶり新たな創造へと駆り立てる本です。要するに、こういうことですね。「全く昔のことで、周りがうるさい!静かにしろ!私の仕事のジャマだ!新しい物語が欲しいなら、自分で創れ!私は忘我で私にしかできない作品を創り出す。」
 モーさまは、今、どんな物語を編み出し、描いているのでしょうか。傷ついた少女を癒し救う奇跡の物語かな?老女と少女の時空を超えた出会いの物語かな?ロボットと少年の物語かな?いずれにしても、きっと私達には思いつかないような奇想天外な物語が、また生まれるのでしょう。

 バカで(4回)、トロくて(3回)、頭の回転が遅くて(また出たよ、2回)、鈍感で(鈍いも含め2回)、ダメ人間で(2回)、会話についていけず(2回)、ノロマで(1回)、空気が読めず(1回)、コメディとギャグのセンスがほとんど無く(1回)、嫉妬もわからない(1回)一方、意識的に人を傷つけることはでき(1回)、不快でも反論せずに黙ってしまう癖のある(1回、やっと終わった。)、ただ漫画が大好きで(実は人間も)、漫画が書けることがただ嬉しくて・・、そんな彼女(巻末作家(3回))の才能を見抜き、いつしか少女漫画の神様と呼び、守り育ててきた少女漫画の世界に関わる方々に敬意を表して、終わりにします。


「大泉」表紙.jpg

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